阿弥陀寺

阿弥陀寺(あみだじ)

阿弥陀寺

〒652-0844 兵庫県神戸市兵庫区中之島2-3-1

TEL : 078-671-6206

地下鉄海岸線・中央市場前駅より約400m。徒歩で約5分程度。

 

清盛塚を後にして、大和田橋を渡り中央市場へと向かう道に阿弥陀寺はありました。

自転車で通っていると、気持ちの良い下り坂なので、思わず通り過ぎてしまうところでしたっっ

看板を見つけて、慌てて引き返しました。

阿弥陀寺看板

阿弥陀寺は平清盛が海路安全の守護神として建立したものと伝えられている。

また、自らの繁栄を祈願したものなどの諸説があります。

阿弥陀寺境内には、平清盛が魚族の供養をするために建立したという魚の御堂があったと伝えられています。

 

魚の御堂礎石由来(楠公供養石)

魚の御堂礎石由来

説明板の内容は以下のとおり。

「池中の大石は平清盛が魚を供養するために建てた魚の御堂礎石と伝えられている。
又、楠木正成公の供養石と伝えられている。
建武三年(1336)5月25日湊川の戦いに大捷した足利尊氏が須佐の入り江の奥にあった魚の御堂で楠木正成公の首改めをしたと言われる礎石である。
この大石を黒田長政より絵屋(鷹見家)が賜ったものを阿弥陀寺に寄贈された。
昔の争いを水に流し平和を祈願して中庭より池中に納められた。又、この大石は明石の語源となる赤石であるとも言われている。

平成十年四月吉日」

 

清盛橋

清盛橋(きよもりばし)

清盛橋

兵庫県神戸市兵庫区今出在家町3

地下鉄海岸線・中央市場前駅から約600m。徒歩で約7分程度。
JR兵庫駅より約800m。徒歩で約12分ほど。

兵庫運河にかかる清盛端橋は橋の拡張により架け替え工事が行われ、1987年(昭和62年)に完成しました。

それまでは「第5橋」と呼ばれていましたが、市民からの要望によりすぐ近くにある清盛塚にちなんで「清盛橋」と名づけられました。

「第5橋」とは、兵庫運河に架かる高松橋から数えると、5番目であったことからそう呼ばれていました。

すぐ近くにある大和田橋とは違い、かなり新しくシンプルな清盛橋ですが、橋の両側の欄干には源平合戦・平家物語などのレリーフ彫刻が飾られています。

 

平家物語絵巻

清盛橋レリーフ平家物語

 

源平合戦図屏風

清盛橋レリーフ源平合戦2

 

清盛橋レリーフ源平合戦

兵庫津の道の散策にこのようなレリーフがあると、橋を渡るだけでも楽しいです♪

子供の頃はこんなに綺麗な橋ではなく、一つ一つのレリーフに見入ることもありませんでしたね。

大和田橋

大和田橋(おおわだばし)

大和田橋

兵庫県神戸市兵庫区中之島2

地下鉄海岸線・中央市場前駅より約400m。徒歩で約5分程度。

 

大正十三年六月に兵庫運河に架けられた大和田橋は、ちょうど東の新川運河、西の兵庫運河の境になる場所です。

神戸港の前身である大和田泊にちなんで名づけらた石造りの立派な橋です♪

三連のアーチがとても美しいです。

大和田橋を清盛塚の方面から南へ兵庫港へ向かうと海風がふき、運河を眺めながら気持ちの良い光景が広がりました。

大和田橋三重アーチ

神戸空襲でこの辺り一体はほとんどの建物が壊滅状態だったにもかかわらず、大和田橋は残ったと言われています。

空襲による黒く焦げた跡が今も残されたままです。

さらに、1995年の阪神淡路大震災では大和田橋の親柱4本中3本崩落するという被害を受けました。

しかし、趣のある重厚たっぷりの三連アーチの橋は今も健在です。

 

阪神淡路大震災で被害で残った1本の親柱を復興し、倒れた欄干を利用した「大和田橋戦災・震災復興モニュメント」が設置されています。

神戸空襲のあった3月と、阪神淡路大震災のあった1月の星座をかたどった発効ダイオードが埋め込まれており、夜は赤く光るようになっています。

また、良く見てみると、親柱周辺には、精巧なブロンズ製のカタツムリの装飾があります。

カタツムリは綺麗な空気と水のある場所にしか生息しない生き物であることから、この場所に願いを込めて取り付けられたんだそうです。

和田の笠松

和田の笠松(わだのかさまつ)

和田の笠松

兵庫県神戸市兵庫区須佐野通1-1-28

JR兵庫駅より約800m。徒歩で約12分程度。

須佐野公園内に和田の笠松の石碑と案内板があります。

和田の笠松は入港する船の目標となり、重要な目印の松となっていましたが、笠松も次々と植え替えられ、戦災により現在は消失してしまいました。

また、道行く人たちの目印とされるほどに聳え立っていたと言われ、石碑が立つこの場所より南にあるJR和田岬駅のほど近くに「笠松」という地名がつけられています。

須佐野公園

子供の頃、この須佐野公園で遊んだ記憶があります。

現在は遊具も少ない、整然とした須佐野公園に整備されています。

子供の頃は確か中央に網で仕切られた空間があったり、ブランコ、滑り台、砂場といったたくさんの遊具もありました。

広く感じていた須佐野公園も、大人になった今見てみると、小さな公園に思えます。

昔、遊んだ頃とは全く違っていますが、懐かしさを感じました。

 

「和田の笠松」案内板より

和田の笠松説明板

和田の笠松は往事須佐の入江の浜に聳え、入港船の目標となり、東西往還の目印の松ともなっていた。
鎌倉時代初期の歌人、藤原為家の歌に「秋風の吹き来る峯の村雨に、さして宿かる和田の笠松」と歌われており、古くから 有名な松だった。
延寶8年(1680)の「福原びんかがみ」には、絵入りで紹介、元禄4年(1691)の絵図にも真光寺のそばに松の絵が入っている。
元文元年(1736)の海道名所図では立派な松が描かれており、寛政10年(1798)の摂津名所絵図には絵入りで「古松は枯れて植継ぎなり」とある。
明治20年頃まではこの松の下に稲荷があったが、のち住吉神社の境内に移った。笠松も次々と植え継がれていたが、おしくも戦災により焼失無くなってしまった。
左側の「和田の笠松・笠松の歌碑」は神戸史談会が発会70周年記念事業の一つとして、昭和50年11月9日、小河公園内に建立したものである。今回「兵庫津の道」に面したこの地に移設した。

平成15年11月   神戸市、兵庫津の文化を育てる会

 

この案内板の隣に建っているのが、昭和50年(1975)建立された藤原為家の歌碑です。

「 秋風の 吹き来る峯の 村雨に さして宿かる 和田の笠松 」

和田の笠松石碑

また、須佐野公園内には兵庫津の道の案内板が設置されています。

兵庫津の道案内板

兵庫津の道の案内板は兵庫の町のあちらこちらに設置されていますが、こちらの案内板はイラストも豊富でとても分かりやすい地図です。

住吉神社

住吉神社

住吉神社

〒652-00847 兵庫県神戸市兵庫区切戸町1-3

TEL: 078-671-4067

地下鉄海岸線・中央市場前駅より約500m。徒歩で約6分程度。
JR兵庫駅より約1km。徒歩で約15分程度。

清盛塚と琵琶塚のすぐ隣に建つのが住吉神社です。

大和田橋のたもとにある、大きな石の鳥居が目を引きます。

住吉神社鳥居

運河が目の前の住吉神社はすっきりとした境内で明るい印象です。

住吉神社由緒と歴史(以下、案内板より)

住吉神社由緒

神戸港の西へ続く海岸線、和田岬の手前、兵庫の津は、古来風浪を避ける場所がなく、大風浪時には船を避難させることが出来ず、地元では難儀していた。

明治十年新川が完成、船の通運が全く安全になったので、地元商家住民の熱望に依り、海の守護神と仰ぎ奉る住吉大神を守護神に勧請せんとする熱意が実り、浪速の住吉大社より御勧請することとなり、地元の人々の敷地奉献の至誠により約七百坪の境内地を造成し、豪壮な住吉造の社殿を竣工し、明治十一年六月三日、遷座奉祝祭を斉行した。

爾来、神社裏(西側)東方の能福寺に繋がる道路左右にhが、商家が軒を連ね、大正末年には、市電が柳原から中之島へ通じ、また、南西側には清盛塚が移設され、神社裏の道路左右は「清盛塚商店街」と名づけられ殷賑をきわめるに至った。

残念にも大東亜戦の戦火により社殿以下付属舎悉く罹災したが昭和三十九年氏子、崇敬者の赤誠溢れる助力奉賛により社殿以下を復興建立した。

平成十年は御創祀百二十年に当たり、奉祝に大石鳥居の奉建あり、これを機に付属舎、境内整備等の奉賛事業を完了、平成十一年七月二十五日に奉祝際を斎行した。

祭神/住吉四柱大神(表筒男・中筒男・底筒男命・神功皇后)
祭礼/六月三日 十一月二十七日 住吉神社例祭   三月二十七日 橋本稲荷神社初午祭

清盛塚

清盛塚(きよもりづか)

清盛塚

〒652-0847 兵庫県神戸市兵庫区切戸町1-3

地下鉄海岸線・中央市場前駅より約500m。徒歩で約8分程度。

 

NHK大河ドラマ・平清盛の放送により、この清盛塚は綺麗に整備されました。

昔は、鬱蒼とした木々に囲まれ、十三重の石塔は隠れてしまうほどの状態だったため、このように綺麗になった姿を見て、「うわ~昔と違う!!綺麗♪」と驚きながらも喜ばしく思いました。

清盛塚は子供の頃の遊び場となっており、ひっつき虫を取りに行った場所でした。

その頃の懐かしさは全く残ってはいませんが、綺麗に整備されたことがとても嬉しいです。

清盛塚十三重塔

十三重の石塔は鎌倉時代の執権北条貞時が平清盛の冥福を祈り、建立したもので、県の指定文化財に指定されています。

元々は今の場所ではなく、大正12年に市電の道路拡張工事に伴い現在の場所に移転しました。

平清盛のお墓として知られていましたが、移転の際に調査した結果、お墓ではなく供養塔であることが判明。

また、その隣には神戸出身の彫刻家・柳原義達氏の作である平清盛像(1968年建立)と、琵琶の名手である平経正にちなんだ琵琶塚(琵琶の形をした古墳)が建てられています。

平清盛像と琵琶塚

すぐ近くには清盛橋があり、平清盛のお墓は能福寺にあります。

兵庫城跡

兵庫城跡(ひょうごじょうあと)

兵庫城跡

〒652-0847 兵庫県神戸市兵庫区切戸町

地下鉄海岸線・中央卸売市場前駅から約400m。徒歩で約5分程度。

キャナルプロムナードの中央辺りに建っているのが兵庫城跡・最初の県庁後の碑です。

 

実は、この兵庫の地に住んでいながら、こんなに近くに兵庫城があったことを長年知りませんでした。

キャナルプロムナードにもふらふらと散歩に来ていましたが、こうした石碑というのはマジマジと地元民は見ないものなんですね・・・お恥ずかしい話です。

こうして兵庫津の道をたどりながら歩き、たくさんの発見があることを嬉しく思いました♪

 

案内説明板はこちら。字が薄くなっており、読みにくいので、下記に内容を記します。

兵庫城跡説明板

天正八年(一五八○)池田倍輝と輝政父子が花熊城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田債長の手に入り、これを機会に池田氏は花熊城の遺材も加えて兵庫城を築いた。

その地点は現在の切戸町、中之島中央市場にかけて東西、南北ともだいたい一四○メートルの地域で、周囲には幅三.六メートルの堀があった。

古来兵庫は、源平の合戦、湊川合戦以来たびたび大きな合戦があって、そのつどひどい戦災を受けた。

兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。

しかし、信長・秀吉による全国統-がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。

兵庫城跡は江戸時代に入って元和三年(一六一七)尼崎藩領となって、藩の陣屋となり、 明和六年(一七六九)幕府領となってからは大坂奉行所に所属して、与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。

新政府は慶応四年(一八六八年同年九月八日明治改元)一月二十二日にはこの城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが、二月二日に兵庫裁判所と名が変わり、五月二十三日にまた「兵庫県庁」と改められた。つまりここが最初の兵庫県庁である。

その後県庁は同年九月十八日、今の紳戸地方裁判所の場所(中央区橘通)に新築移転、 さらに明治六年五月現在地(中央区下山手通5)に移転した。

明治七年(一八七四)新川運河の開削が行われ、城跡の中心地はほとんど川敷になってしまった。

兵庫県  神戸市  岡方協議会

 

清盛くん

清盛くん(きよもりくん)

清盛くん

新川運河にかかる入江橋に清盛くんの姿があります。

私が思っていた平清盛のイメージとちょっと違うな~なんて思いながら、やってきました。

清盛くんの像は平成17年に入江橋の上に設置されました。

「兵庫津の道」をめぐる観光客の方に囲まれて人気の清盛くん。

なかなか写真が撮れず、この場所に10分以上撮影待ちをして撮った一枚でした。

威厳がある平清盛というよりも、にこやかな可愛らしい清盛くんですね♪

歴史散策の叔母様方に人気にようでした。
清盛くんの案内板はこちらです。

清盛くんの案内板

清盛くんの年表
案内板の内容は以下に記します。

「ここ兵庫区は奈良時代より天然の良港として知られ、大和田泊と呼ばれ親しまれてきました。

平安時代には、平清盛によって経ヶ島建設などの大修築工事が行われ、日宋貿易の拠点となりました。

その後、大和田泊は兵庫津と呼ばれ勘合貿易(明)の中心舞台として国内で第一の港として賑わい、そして明治元年には兵庫港が開港され、今日の神戸港発展の基礎となりました。

清盛がいなければ現在の兵庫の発展はなかった

と、平清盛を地域のシンボルとしてPRすることを決め、平成17年に清盛像(きよもりくん)を製作し、ここ入江橋の傍らに設置しました。」

 

こちらの写真は入江橋から撮った新川運河の眺めです。

ちょっと天気が悪かったので、あまり美しい写真ではないのが残念です。

新川運河の入江橋

 

兵庫運河

兵庫運河(ひょうごうんが)

兵庫運河

兵庫運河は開削後100年以上の歴史を持つ日本最大の運河です。

全長6470m。水面積337300㎡。

兵庫運河・兵庫運河支線・新川運河・苅藻島運河・新湊川運河の5つの運河の総称として「兵庫運河」と呼ばれています。

和田岬は潮の流れが速く風波も強く、海難事故を減らすために作られました。

明治8年に新川運河を開削。その後、明治32年に開通した兵庫運河により、須磨と兵庫港を結ばれました。

 

こちらは新川運河の築島水門です。

以前は殺風景な水門でしたが、NHK大河ドラマ「平清盛」の影響でしょうか、「清盛ゆかりのまち兵庫」の文字が書かれています。

築島水門

兵庫運河は港湾物流に利用され、第2次世界大戦終戦後は貯木場としても活用されていましたが、2005年に貯木場がなくなりました。

子供の頃、いつも見ていた兵庫運河には、たくさんの材木がずら~っと浮かんでいました。

それが当たり前だったので、材木が消えてしまった運河は少し寂しいように感じます。

危険なので絶対にしてはダメ!と言われていたにも関わらず、男の子は運河に浮かんだ材木の上を歩くという危ない遊びをしては大人から怒られていたようです。

現在は新川運河沿いは300mにわたるキャロルプロムナードという遊歩道が整備されています。

レガッタレースなどの水上スポーツの開催、地域イベント・催しがを行われて賑わっています。

こちらには兵庫運河の歴史を記した案内板が設置されています。

兵庫運河の歴史

また、兵庫運河に添うようにあるのが「神戸中央卸売市場」です。

神戸の台所として、市民が訪れることの出来るグルメスポットとしても知られています。

神戸中央卸売市場

来迎寺(築島寺)

来迎寺(らいこうじ)

来迎寺(築島寺)

〒652-0833 兵庫県神戸市兵庫区島上町2-1-3

現在は来迎寺ですが、かつては築島寺(つきしまでら)と呼ばれており、「築島」の名の方が知られているように思います。

来迎寺は阪神淡路大震災で大きな被害を受けました。

その後、現在の鉄筋コンクリート造りの本堂に建て替えられています。

 

来迎寺は平清盛が湊の修造の際に経ヶ島という人工島築造の工事に難航していたところ、17歳の小姓・松王丸(香川の城主、田井民部氏嫡男)が進んで人柱となり、工事を成功に導いたといわれています。

来迎寺は松王丸の菩提を弔うために平清盛が建立したと伝えられています。

境内には松王丸の供養塔が祀られています。「松王小児入海」の碑と墓があります。

来迎寺松王丸供養塔

 

その隣には妓王と妓女の供養塔も祀られています。

来迎寺妓王と妓女の供養塔

 

妓王と妓女は姉妹で共に京堀川の白拍子。

妓王と妓女という白拍子(踊り子の一種)の姉妹は、清盛の寵愛を得て優雅な日を送って居ました。

清盛の心が他の白拍子仏御前き、妓王と妓女は清盛の寵愛を失い、嵯峨野に移り庵(今の祇王寺)を結び仏門に入りました。
その後、平家が壇ノ浦で敗れ、滅びたため、平家ゆかりの兵庫の八棟寺(能福寺の末寺)に住持して平家一門の菩提を弔ったと云われています。

来迎寺は清盛七弁天のひとつとして知られています。

来迎寺清盛七弁天

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